自分にとって「仕事」とは

価値共創のイノベーションで地域が豊かになることを目的に、イノベーション・マネージャーの輩出に取り組まれている方がいる。
今、開催中の研修やこれからの講演についてお話を伺って、帰り際に頂戴した1枚の紙が深く心に刺さった。昔、読まれた本から紙に書き移された文章とのこと。
いつでも見ることができるように、ここに転載させていただく。

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仕事は祈りである
平澤 興(京都大学名誉教授)

 先日ある会合でのことである。外科のA博士から「手術は祈りである」とのことばを聞いて粛然えりを正した。博士は大学入学以来の心の友である。竹を割ったようで、しかもあたたかく、君が学に対して、人に対して、誠実そのものであることは、つとに私の知るところであり、いまさらこんなことばを聞いて驚くのがむしろおかしいかもしれない。
しかし、実際私は驚いたのであり、あらためて四十年来の心の友をほんとうに仰ぎ見たのである。こんなすばらしい友がまたとあろうか。

 

 外科医が手術に最善を尽くすのは、当然のことである。しかし「手術は祈りである」ということばのなかには、はるかに最善以上のものが含まれている。そえは医学と医術の限界を知り尽くした名医が、自らの最善を尽くして神の前にひれ伏し、患者のために手術の成功を祈る姿である。
君の腕は近来ますますさえつつあるというが、うべなるかなと思う。

 

 私は「手術は祈りである」ということばを聞いたとき、これはさらに一般的には「仕事は祈りである」ともいわれようと思った。ややもすると、仕事は生きるための手段のみのごとく誤解されるが、仕事は決してそんな手段のみではなく、仕事こそは人生を内容づけ、価値づけるもので、人生の目的そのものといわれよう。そういう意味で仕事に最善を尽くすことは、すぐれた知能を与えられた尊い人間の義務であり、同時にまた幸福でもあろう。

 

 しかし最善を尽くすというだけでは、なにかまだ足らぬものがあるような気がする。
それだけではうまくいった場合はよいが、最善を尽くしてもうまくいかないようなときには、とかく不平やぐちが出がちである。人間は万能ではないから、やるだけやっても、ときにはうまくいかぬようなこともある。そういうとき、人間が人間の限界を知り、謙虚であれば、それはそれとして、さほど力を落とさずにさらに前進ができる。
とかく人間は、これだけやればこれだけの結果をというふうに考えやすいが、それは人間の力を過信して神を恐れぬ人々の考えることで、人間のなしうることは最善を尽くして、あとは天に任せることである。
「仕事は祈りである」ということは、自らの最善を尽くして、それ以上は神に祈るということで、この気持ちに徹すれば、いつも楽しく仕事ができ、たとえば仕事の上に、一時的にいろいろの波があっても、大局的には必ず仕事は順調に進み、しまいには楽しみのなかで、仕事が仕事を導いてくれるようになる。
(世の姿・心の姿 法蔵館刊)
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この文を教えてくださったことに深く感謝します。

 

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